ツネ語ログ

ツネザワシ(Tsunezawashi )です!漢字教育士をやってます。

【取材】大阪でヒョウ柄が流行った訳【ルーツを辿る】

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こんにちは。ツネザワシです。

ひょんなことから、そよ風工房として取材に行って参りました。

この度は、大阪で「ヒョウ柄」が流行している、そのキッカケを知る人物への取材です。

恐らく、日本初公開?ではないでしょうか。

まえおき:ヒョウ柄が大阪で流行ったワケは・・・?

ヒョウ柄の購買だけを考えると、どうやら日本では埼玉が1位、大阪2位とのこと。

(※ZOZOTOWNの発表しているランキングによる)

 

よく世間で話題になる「大阪のオバちゃんがヒョウ柄を好む理由」について、テレビやネットのいたるところで議論が巻き起こっています。

江戸時代から、上方では派手な装束が流行っていた

という話は、もっとものように聞こえますが、ではなぜヒョウ柄なのか?

他にも派手な服装はあるよね?という話に辿り着いてしまいます。

韓国から派手な服装文化が流入してきた・・・という話もありましたが、イマイチ真実は見えてきません。

 

ここで考えたいのは、なぜ大阪にヒョウ柄がやってきたのか?というポイント。

取材に先立ちまして、自分でもネットでいろいろ調べてみましたが・・・

どうやら結論は明示されていないようです。

 

そこで当時を知る人物に取材に行ってきました!

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こちらの方は、金光範明さん。

御年86歳で、長年染色業界に携わってきました。

 

*ここからは、金光さんの取材内容をもとにお伝えします*

 

大阪の方ならご存知の「堺」。

当時、阪堺電車 東湊駅から南に少し下ったところに、恵美寿織物という会社がありました。別珍・コールテンの製造会社です。

*別珍とは、ベルベット、コーデュロイに似るパイル織物のこと。

*コール天とは、コーデュロイのこと。

 

ときは遡ること、昭和32年頃。西暦でいうと1957年ですから、まだ戦後10年ちょっとの時代です。

金光さんは京都工芸繊維大学を卒業したばかり。在学中は染色について学んでいたとのことです。なんと大学の2期生なんですって!

恵美寿織物は300~400人ぐらいの規模の会社で、金光さんは和歌山の技術者たちとともに働いておりました。なお今でも和歌山では繊維業が盛んとのこと。

 

重役の先見の明!?

あるとき、当時の重役であった、森さんという方が、アメリカから「ヒョウ柄」のデザインを持って帰りました。なぜヒョウ柄を選んだのか?

・・・そこまでは金光さんも知らぬところでしたが、こればかりは森さんの慧眼に感服するばかりです。

このヒョウ柄のデザインをもとに、プリントがスタートしたのです。

それはつまり、大阪で・・・あるいは日本で初めて、ヒョウ柄のデザインが市場に出回ったと言っても過言ではないでしょう。

 

金光さんは、ヒョウ柄に染めて染めて・・・の毎日。

金光さんは同僚とともに、工場では染料と糊を調合する作業を担当していました。

そもそもヒョウ柄の染色とは、「白色の生地に黒色の染料」を、「黄色の生地に茶色の染料」をプリントする2種類となっています。

一言で書いてしまいましたが、実際には銅のロールの歯(※ドクター)の調整から、染料の配合、生地の乾燥など、様々な染色工程が待っています。

 

金光さんは、忙しい時には一日8時間以上も染色作業を行っていたという。

今までは2~3柄をまわしていたこともあったが、ピークにはヒョウ柄だけ何日も変えずにプリントすることもありました・・・。

それだけ、ヒョウ柄の需要があったというワケですね!

 

当時の大阪にはヒョウ柄が溢れていた・・・と思いきや

さて、これだけ工場を稼働させてヒョウ柄をプリントしていたのですから、さぞ当時の大阪の女性たちはヒョウ柄を着こなしていたに違いない!と思いきや・・・

金光さん曰く「当時は、派手な服装をそんなに見なかった」とのことなのです。

実は恵美寿織物で製造したヒョウ柄は、国外への輸出が多かったらしいのです。

これは作業指示書から判断できる内容であり、具体的には、ナイジェリアなどのアフリカや、アメリカが目立ったとのこと。アメリカはまだしも、なぜナイジェリア?

これはつまりどういうことかというと、ターバンや大判のストールなどに用いられたのではないか?と金光さんは語っておりました。暑い地域ですしね。

 

なお国内ではあのマルベニが取引先だったとのこと!

ですから当時の大阪でも、恐らくヒョウ柄の服を着こなしていたレディーがいるはずなのです。

 

空白の期間?

そんな金光さんはご実家の染色業を継ぐために、4年ほどで恵美寿織物を退社します。そのため以降のヒョウ柄染色には携わりませんでした。

また当時の会社の営業担当とも連絡を取れないため、1960年代半ばからの動向については、さすがの金光さんもわからない状態です。

勝手なイメージですが、万博のころにはヒョウ柄ブームは確立していたのではないでしょうか?昭和のドラマや映画を追えば、もうちょっとヒョウ柄の流行についてはわかりそうな気もしますが・・・誰か是非調べてみてください(笑)

幸い、白黒テレビでも、ヒョウ柄は視認できますしね!

 

余談ですが、恵美寿織物はその後廃業したとのこと。当時の社長は今でも建築系のお仕事に携わっている・・・らしいのですが、金光さんも連絡を取り合っているようではないみたいです。

 

ヒョウ柄を支えた男のその後・・・

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金光さんはその後も染色業界を転々とし、国内外を渡り歩きました。

関西だけではなく、北陸、東海、北関東、そして九州。さらには韓国、中国も・・・。

新しい化学繊維の出現から、パンティストッキングがシームレスタイプになるところまで見届けました。当時は、たくあんも染めていたそうです。

当時のパンストは右足・左足が一本ずつ分かれておりました。これが技術の発展にともない、シームレス・・・つまり両足セットでつくることができるようになったのです。その代わりに、穴が片方にでも空いたら買い換えないといけないことになりました。沢庵(たくあん)も、昔は今と違って規制も緩く、食品用の着色料を使う必要がなかったとのこと。

 

金光さんからはその他にも様々な染色業界の裏話をお聞きすることができました。

その話しぶりは86歳には見えないぐらい、大変矍鑠としています。

「しんどいけれど楽しかった・・・。」と当時を振り返る金光さん。

今、この日本でヒョウ柄が残り続けているその歴史の裏側には、

職人たちの汗と涙が詰まっているのでした。

 

終わりに

今回の取材については、実は金光さんの周囲で当時を知る人たちが他界している・・・ということが背景にあります。

巷でこれだけヒョウ柄が話題になっている・・・一方で当時の裏話が誰にも知られることなく、歴史に埋もれてしまうことを大変危惧されていました。

そもそも取材のキッカケは、ボクの職場に一通の電話が入ったことでした。ヒョウ柄のルーツに興味がある方はいないか?と、金光さんご本人からの連絡だったのです。テレビ局やデザイン会社など、いろいろなところに打診をしても、どこも反応は芳しくなく・・・。

たまたま対応したのが、ツネザワシだったため、今回の取材が実現したのでした。これがもし他のスタッフだったら・・・恐らくこの取材は実現していなかったと思います。

金光さんからも「アンタ・・・好奇心旺盛だよね(笑)」と言われるぐらいでしたが、何か不思議なご縁を感じました。

 

今回は許可を得て、且つ多くの方々に知っていただくということで、僭越ながら個人のブログで紹介させていただきます。

大阪でヒョウ柄を流行らせた仕掛人まではわかりませんでしたが、関係者各位のアプローチを引き続きお待ちしております。

 

そよ風工房 ツネザワシ